信じられぬと嘆くよりも人を信じて云々って昔ロン毛が言ってた

こんにちは、石川です。

 

信じる、って難しいですよね。(唐突)

 

まあ今日Xのポストで見かけた「推しが信じられない」というフレーズ。

 

いやよくわかんねえな、と。

自分の中で「相手を信じる」っていう概念がないからなのかもしれないんですけど(これちょっと話こじれるんで下の方に書きます)、そもそも信じる、ってなんなんだ、という。

 

…なんか最近このブログが精神論になりそうだなあ、という気配すらしてますが、お付き合いください。

 

結局判断基準になるのってあくまで「自分の判断基準」だと思うんすよ。

他の人から見たら明らかにNGでも、その人にとってはむしろ100点回答、なーんて例いくらでもあると思うんです。

それこそ育ってきた環境が違うから好き嫌いは否めない、ってやつ。(出典わかったら歳を実感してください)

 

前回も書きましたが、人間なんてもんは突き詰めると自分の中で発生した感情に従って生きるしかないわけで。

楽しい嬉しいなんてものは人それぞれだし、逆もまた然り。

突き詰めるとフェチズムの一種となるわけで。

 

石川がアイドルオタクなので例示がどーしてもそちらに寄るのですが、レスが来て嬉しい人も入れば、お顔かわいいいいでニコニコできる人もいる。はたまたそこにウエイトがほぼなく、ド塩対応に快楽を覚える人もいる。これは結局「自分の判断基準」。

 

自分の中で動きたい!やりたい!と思うことは積極的になれるのに、逆はそうでもない。時間の経過感覚なんていい例で、楽しい時間はあっという間なんですよ。

ガキの頃から何度も経験してきた夏休みの宿題と一緒。

自分の中での快楽は何物にも代えがたいプライオリティ筆頭。

 

じゃあ話を戻しましょう。

 

相手が信じられない、なーんてことまあなくはねえんだろうな、って思います。

そりゃ理由を外に求めたくもなる。

昔から自分が変わること、変わったと認識することに対してなぜか人間は臆病な生き物のようで、これは変えられたことを認めたくない、自分は自分なんだ!っていう感覚らしいんですけど。

 

前回も書いたんですが、自分の中の判断基準ってそうそう大きく揺らぐことはないと思っているわけです。

だから信じるものは「自分の判断基準」になってくる。

自分が正しい!と思って行動してればそれはその人にとっては絶対的正解。

 

外部に理由を求めてしまうことがなんか言い訳っぽくて自分は好きじゃなくて。

テンションの浮沈なんて日によるし、タイミングはある。

一過性の案件に気持ち左右されてたらまあもたない。心が動くってカロリーを使うから、って言ってどんどんテンションが白濁沈殿していった自分だから言えるわけです。

 

でも、いっぱい心を動かして得られる快楽もあるんだよ、って気づかせてくれた大事な人ができたから、そーゆー人生もいいのかな、って思ってる今日この頃。

偉大ですよ、気づきを与えてくれる人って。

これからも周りにいじられようがひたすら悶絶し続けるライブや特典会をし続けよう、って思ってる所存。(最近オタクのみなさんのおかげで自分がどれだけクネクネしてるのか改めて実感してます)

 

まあ現状報告はさておき。

 

だから相手を信じられない、って状態は「自分で自分のことを信じられない」状態だと思ってるんですよね、石川は。

だってそれはそうだ、「信じる」というフレーズを使うってことは、一定値の信頼関係がある前提。

 

だったらまずは相手どーこーより自分の気持ちだったり行動、もっかい見直してみませんか?と。

相手も自分も正着打ってれば齟齬なんてそうそう生じないと思うんすよ。(性善説論者)

 

だからもうちょい自分のやりたいこと、楽しいこと、相手にまずは伝えてみることから始めていきたいな、と。

 

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※自分が今までで1番しっくりきた表現。至言だと思うんすよほんと。

 

といったところで昼休みおしまい。

今日も今日とてマジでらぶ。

いつもマジで頭上がんねえんすよ、、、

 

だから自分の信じる道どんどん進みな!

石川も自分の信じた歩く道、一緒に進ませてもらいます。

 

だいすきだーーー!!!(結論ここ)